喫茶店とは|喫茶店の歴史・純喫茶やカフェとの違い

江戸末期に海外からコーヒーが持ちこまれたことをきっかけに日本の喫茶文化が花開きましたが、日本独自の進化を遂げてきた結果、海外のカフェとは異なる喫茶店が誕生しました。

100年以上つづく日本の喫茶店の歴史から、純喫茶やカフェとの違いまで、喫茶店について詳しくお伝えします。

喫茶店とは?

喫茶店とは、「コーヒーや紅茶などの飲み物、トーストやホットケーキなどの軽食を提供する飲食店」のことです。

喫茶店の歴史は?

現在のような形の喫茶店は、第二次世界大戦後の復興とともに現れました。しかし、喫茶店の起源はさらに古く、実に100年以上の歴史があります。

日本の喫茶店が「いつ」誕生して「どのように」進化してきたのか、喫茶店の歴史について学びましょう。

コーヒーの伝来

記録に残っている限りでは、日本にコーヒーが持ちこまれたのは江戸時代末期で、長崎の出島にあったオランダ館に出入りしていた役人や通訳たちがコーヒーを初めて飲んだとされています。(『長崎見聞録五巻』より)

また、大田蜀山人しょくさんじんという御家人は、コーヒー飲用体験を日本人で初めて記しました。

紅毛船にて”カウヒイ”というものを勧む、豆を黒く炒りて粉にし、白糖を和したるものなり、焦げくさくて味ふるに堪えず

「瓊浦又綴(けいほゆうてつ)」大田蜀山人 1804年

コーヒーの味が、当時の日本人の口に合わなかったことが分かります。しかし、新しいもの好きの遊女や15代将軍・徳川慶喜は、異国の香りのする茶色い飲みものを楽しんでいたと言われています。

日本が鎖国しているあいだに、コーヒーは西欧の人々の生活になくてはならないものとなっていました。世界のコーヒー文化に取り残されていた日本ですが、江戸末期のコーヒー伝来をきっかけに普及していくことになります。

喫茶店の誕生

日本の喫茶店のはじまりは可否茶館と言われています。明治中頃の1888年に東京の上野で創業した可否茶館は、トランプやビリヤードなどの娯楽、国内外の新聞や書籍、化粧室やシャワー室などを備えていて、複合喫茶として営業されていました。

当時のコーヒーの値段は1銭5厘から2銭くらいで、蕎麦(8厘から1銭くらい)のおよそ2倍の値段で提供されていました。今よりも嗜好品としての毛色が強く、上流階級の人たちが嗜むものだったようです。

マスターの鄭永慶が「コーヒーを飲みながら知識を吸収し、文化交流する場」を目指していたことからも分かるように、庶民が気軽に訪れることはできませんでした。

カフェーの登場

1892年に閉店した可否茶館のあとにつづくお店が現れたのは、明治時代末期の1911年。銀座にカフェーと称する飲食店が相次いで登場し、独自の売りを展開していきました。

  • カフェー・プランタン(会員制カフェ)
  • カフェー・パウリスタ(庶民向けカフェ)
  • カフェー・ライオン(メイドカフェ)

世間にカフェがどういうものか認知されていない中で開店したカフェー・プランタンは、経営を安定させるために維持会員を募りました。会費は50銭で、2階の日本間三室を会員専用として提供していたようです。画家や文学者、役者、ジャーナリストなど、当時の文化各界を代表する錚々そうそうたる顔ぶれが会員に名を連ねており、「知識階級のサロン」として機能していました。

ブラジルへの移民送り出しに貢献した水野龍は、「サンパウロっ子」という意味の言葉を冠したカフェー・パウリスタを開業する。パウリスタのコーヒーは一杯5銭で、当時の銭湯代が大人3銭であったので、比較的手頃な値段で異国の味を楽しむことができた。知識人が中心だったプランタンに対して、一般客も多かった庶民性から「誰もが親しむ喫茶店の元祖」とも言われている。北は札幌から南は福岡まで、さらには海外の上海にも店舗を拡大したパウリスタは、日本初のコーヒーチェーン店でもありました。

メニューの中心が洋酒や洋食で、カフェというよりはバーとしての色合いが強かったカフェー・ライオンは、少し毛色の異なるスタイルを持っていました。その特徴は、女性給仕(ウェイトレス)のサービスで、何十人もの女性が揃いの衣装で給仕をして、時にはお客の話し相手となっていました。後年に現れる「美人喫茶」や現在の「メイドカフェ」の先駆けのようなお店です。

サービスの過激化

関東大震災の翌年の1924年に、カフェー・ライオンの斜め向かいに開店したカフェー・タイガーは、女性給仕による過激な接待を売りにしたカフェーの代表格でした。店を構えた位置や店名からもカフェー・ライオンに対してライバル意識があったことは明らかです。

カフェー・ライオンは「品行方正な女性給仕」を売りにしていたのに対して、カフェー・タイガーは「美しい女給と濃厚なサービス」が売りで、酒や料理は二の次。人気があったり目立ったりした女給たちは、規律の厳しいライオンから華やかさのあるタイガーへと移っていきました。

ライオンの筋向こうに出現したライヴァルは、虎だけあって万事が猛烈で女給も芸者風、女学生風、奥方風といろいろ取り揃えて客の好みに応じる。女給を赤組・紫組・青組の三グループに分けて、ひとつの組が階下で客を迎え入れると、他の二組は二階で客の接待にあたるという分業システム。これを順に廻してビールの売上高を競争させるから、組同士で客の奪い合いになり、しぜん組同士が張り合って色っぽいサービスを競い合う(以下略)

「江戸たべもの歳時記」浜田義一郎

AKB48のような現代のアイドルのプロモーション活動に通ずる営業戦略は功をそうし、作家の永井荷風をはじめとした芸術家たちが足繁く通っていたそうです。

文藝春秋の創業者でもある菊池寛はカフェー・タイガーにハマっていたようで、投票券のついたビール瓶を150本購入して、お君というお気に入りの女給を人気ナンバーワンにしたという逸話が残っています。

営業スタイルの二極化

過激なサービスを売りにするカフェーは増え続け、サービス競争はさらに激しくなっていきました。特に、関西でのサービスの過激化はすさまじく、有名なお店は関東へも進出していたそうです。

1929年に「カフェ・バー等取締要項」、1933年には「特殊飲食店取締規則」が出されるなど、規制が敷かれるほどに流行したカフェーは、明治時代のそれとは異なり、カフェーと言えば女性給仕によるサービスがあるお店だと認知されるようになりました。

その結果、現代の「キャバクラ」や「風俗店」に近い業態でサービスの提供を主体とするお店と、いわゆる今で言うところの「喫茶店」と呼ばれるコーヒーなどの飲食物の提供を主体とするお店で、営業スタイルは二極化していました。

のちに特殊喫茶と呼ばれるようになったサービス主体のお店が酒類や女性給仕の接待を売りにしていたので、カフェーの中でも純粋にコーヒーを売りにするお店のことを純喫茶と呼ぶようになりました。

戦後の喫茶店

第二次世界大戦の戦時統制によりコーヒー豆の輸入が規制されるようになるとともに、戦争も激化していき、一般市民はコーヒーを飲むことができなくなりました。戦時中、どうしてもコーヒーが飲みたい人たちは、たんぽぽの根やゴボウなどを使った代用コーヒーを飲んでいました。

戦後の荒廃した日本で喫茶店が復活したのは1947年頃からで、戦時下の代用コーヒーや米軍の放出品であったGIコーヒーを提供していました。本格的に人々がコーヒーを飲めるようになったのは、豆の輸入が再開された1950年。輸入豆の9割以上が喫茶店で消費され、そのほとんどが個人経営のお店だったようです。

復興を果たし、世の中が平穏を取り戻すにつれて、その時々の世情を取り込んださまざまな喫茶店が誕生しました。(詳しくは、喫茶店の種類を参照)

1960年頃には個人経営の喫茶店が主流となり、店主のこだわりが店の個性として色濃く反映された。この頃のサービスやコンセプトの多様化が、現在の喫茶店文化のいしずえとなっていると言える。

喫茶店と純喫茶の違いは?

昭和初期頃に流行した特殊喫茶は、酒と女性給仕のサービスを提供していました。それなので、特殊喫茶に対しての呼び名である純喫茶は「酒(アルコール類)を提供しない喫茶店」として定義されています。

しかし、特殊喫茶は営業スタイルによって「キャバクラ」や「風俗店」のように別の業界へと変わっていきました。特殊喫茶と区別する必要がなくなった純喫茶は、酒(アルコール類)の提供の有無で認識されるものではなくなっているのが現状です。

喫茶店とカフェの違いは?

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喫茶店の魅力

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まとめ|喫茶店の歴史・純喫茶やカフェとの違い

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